金色堂は覆いがなくて露出していると数年前に中尊寺へ初めて行った時まで思っていた。
鎌倉時代から金色堂は覆堂が作られ風雪に耐えてきた、現在の覆いは鉄筋コンクリートの建物で薄暗いけれども照明が付けられており藤原三代の歴史を伺うことが出来る。
しかしながら旧覆堂が残され移築されているのを見ると明かり窓はあるけれど薄ぐらく鮮明には見えなかっただろうから芭蕉さんも苦労しただろう。
また密封性から見てもミイラは乾燥されているとはいえ外気の湿度の影響を受けているしヒョウホンムシと呼ばれるジンサンシバンムシ、ヒメマルカツオブシムシ、シミなどが入り込みボロボロにしてしまい新しい覆い堂が出来て調査した時はボロボロであったろうしカビだらけで変質し古代エジプトのミイラから比べたら比較にならないほど保存状態が悪かったと思う。
感心するのは鎌倉時代から覆い堂を拵えて保存して来たことだ、しかし修理したりして来ただろうが修理をきちんとして来ただろうが不十分な時代もあり芭蕉が五月雨を降り止まして光堂 と雨漏りや隙間から入りこむ様子が見られたから詠んだのだろう。
旧覆堂 |
3 件のコメント:
ミイラ調査の様子を映した映画、未だやってましたか?映像に五月雨がしきりに降ると思うほど古いフィルムでしたが・・・。
弟子の曽良の日記によれば句を詠んだ日の天気は良かったそうですネ。長年、五月雨にも耐えてきた覆堂を労ったのでしょうか?
箱根の六道地蔵にも、鎌倉時代から覆いが作られています。風雨から、こうしたものを守ろうという気持ちは、昔からあったのですね。エジプトのミイラも、お金がなくて、保存が厳しいそうです。環境条件の方が随分違うように思います。
ター 様
残念ながら新しいビデオでした、見たかったのですが。小学生の団体が多かったから
省略したのでしょうか。
征郎 様
そうですか覆いは他にもあったのですか知りませんでした。何処の国でも史跡の保存に
大変なようですね気候変動も影響し傷みやすくなっているのでしょう。
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